聖夜



 この時期に思い立ったからクリスマスのことでも書く。

 クリスマスといえばアイリッシュハープや中世のキャロルなどを聴く。といっても、今年聴きだしたのはクリスマスも数日後に迫ってからだが。
 雑貨店でクリスマスカードを眺めるのも楽しい。だが送る習慣がないから買うことはない。
 「アドベント紅茶でも買おうかな」と12月初めに思いついたときにはとっくに品切れで、来年は11月中にスタートダッシュせねばと心に決める。代わりにせめて林檎やスパイスが香る冬らしい素朴なフレーバーティーを飲む。
 毎年ちゃんと楽しみたいと思うのに、この時期は忙殺されてなかなかそんな雰囲気を味わえずにいる。
 とりあえず、2年ほどまえからはちいさなクリスマスリース(写真のもの)とちいさなクリスマスツリーを購入し、12月に入ってしばらくしたら自室に飾るようにしている。こうしているだけでも少しは特別な時間を過ごせているような感覚がする。

 コロナ前はクリスマスに浮かれた街並みを歩くのが好きだった。とはいえいわゆる party people な雰囲気は求めるものとは違うから、ある程度場処は選ぶ。
 何年かまえ、表参道で「ひとりクリスマス」を敢行したときはとても楽しかった。表参道の欅並木のイルミネーションは品があっていちばん好きだ。お気に入りのワンピースとイヤリングでお洒落して、大好きなカフェでパンケーキを食べたあと、並木道を往く大勢のカップルの幸せなムードを感じながらひとりで颯爽と(?)歩いていくのは無性に楽しかった。とくにラブロマンティックイデオロギーに侵されてはいないから「リア充爆発しろ」などという感覚とは無縁である。
 ただ、夕食どきにはどのお店もカップルの予約でいっぱいで入れず、1時間ほど寒空の下を彷徨ったときはさすがに生まれて初めて「リア充爆発しろ」モードに陥りかけた。けっきょく女性向けの某紅茶チェーン店がほどよく空いていて、スパークリングワインつきのクリスマス限定ディナーにありついて事なきを得た。そのお店にはほかにも「おひとりさま」女性がいて意外に思いつつほっとした記憶がある。勝手に仲間意識すら持った。彼らはたまたまだったのかもしれないけど、ひとりでもこうしてクリスマスの街歩きを楽しめる文化が普通に広まればいいのにな。


 

 


 (ついでにその時の写真も載せておく。当時のスマホだから画質の悪さはご愛嬌。)


 とはいえ今はコロナで、付け加えると現代日本で「クリスマスを過ごす相手」とされるような存在が今はいるのだが、遠距離なのでいつもどおりビデオ通話するだけだ。(まあ、少しはお洒落しようかな。)

 重層的な記憶。幼いころ、母と飾りつけたクリスマスツリー。家族で囲んだ特別な食卓。ミッション系の幼稚園や中学高校で毎年聴かされたイエスの物語。皆でうたった聖歌。パイプオルガンの音。闇のなかで無数の蝋燭が輝くキャンドルサービス。読み上げられた聖書のことば。「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神とあった。」(「聖書 新共同訳」『ヨハネによる福音書』より)

 懐かしく思い出されるのは色んな人と過ごした風景だけれど、それでもどこかクリスマスは静かに、心の奥で、ひとりで楽しみたい気がしている。家族や友人や恋人といようが人は本質的に孤独で、それでもひとりひとりが祝福された存在なのだと、クリスマスという風習を千何百年も続けてきた人々の営みに便乗して味わうようなかんじ。
 もしくは、一般社会では人々との交流を楽しむイベントでありつつ一大宗教行事でもあるという、俗と聖が交わるかんじ(?)がいいのかもしれない。

 しかしまあ、残念ながら忙殺されているとじっくり孤独や実存に向き合ったりしてもいられないので、クリスマスはせめていにしえの音楽を流しながらLEDランタンを燈し、紅茶とケーキで過ごすひとり時間を少しは作ってにご機嫌に過ごせるといいな。