一日を、真夜中のように過ごす



 私は基本的に「夜型」である。
 学生時代はまともに朝起きていたのに、それからの年月でいつ、どういうタイミングでこんな生活リズムになったのか。きわめて不本意である。
 夜に活動したくなるのは、普通に考えれば、昼に満たされなかったものを埋め合わせるためだ。最近は「リベンジ夜更かし」という言葉もある。私の場合は実家暮らしのせいで、ほかの家族の活動が夜静まるまで自分らしい時間を持てないから、とも言い訳しておきたい。
 世の中には自由業で思いきった昼夜逆転生活を送る人もいるようだが、そこまではしたくない。ほんものの太陽の光をある程度は浴びたいし、なにより、在宅で働く私にさえたまに発生する外向きの用事――社会とのわずかな関わり、友人関係――などにこれ以上支障を来たしたくない。「朝活」にだって憧れる。
 つまりライフスタイルを「朝型」に近づけたいのに、生来の体質が夜好きなのか、一向に改められる気配がなく煩悶している。

 なぜ「夜」は過ごしやすいのか。
 10代のころ、深夜は両親が寝静まっている自由な黄金時間だった。私は想像の翼を思うさま羽搏かせ、より鮮烈な読書体験をし、自分だけのセンチメンタルな文章を綴った。毎晩のようにお気に入りのクラシック音楽を聴きながら眠りに落ちた。夢中になって絵を描いて、気づけば朝を迎えていたこともある。
 そのころ偏愛していた作品を数えればきりがない。西洋中世の騎士物語。ノヴァーリスの「青い花」。W.B.イェーツの詩。ソクラテスの死を描いた「パイドーン」。ガブリエル・フォーレのレクイエム。レイフ・ヴォーン=ウィリアムズの幻想曲。ラファエル前派の画集。こういったものたちが、とくに夜の静けさのなかで幻惑の力を増し、10代の私は素直にそのなかで溺れることができた。――溺れるというのは恐ろしくて、大人になるとなかなかできない。

 ところで、最近読んだ梨木香歩さんの「不思議な羅針盤」(新潮社)の「14 五感の閉じ方・開き方」という章に興味深いことが書かれていた。

 梨木さんは南九州で過ごした少女時代、いくつかの条件が重なったとき――「山奥の、初秋の満月の夜、月が一番高く上がったとき、比較的大きい活字の本」を、屋根に上って読むのをひそかな楽しみにしていたという。

 それがあれほど好きだったのは、自分の五感が不思議な開かれ方をしていく、そのせいだったと思う。
 そういう月の夜でなくても、真夜中、というのは心を流れる時間の質と密度が昼間と違う。鋭角的な率直さをもって深くしっかり進んでいくのが分かる。〈中略〉特別に静かな夜は、読む本も厳選したいし、深く考えなければならないことは、この時間に行うに限る。
 一日中真夜中だったらいいのに、と、社会の運行に責任のない十代の私はよく考えた。そして、原稿が書けるのはこの時間帯だけ、というのは、だから、十代から長い間続いた私の思い込みだった。


 実は、梨木さんが「一日中真夜中だったら」と願うほどに「夜」の感覚がお好きだとは、意外だった。私が好んで読む、感性が繊細で言葉の美しい女性作家の何人かは「朝型」を自称する人が多く、梨木さんもそれに連なるイメージがあった。彼女の作品からただよう、朝靄のなかで露を宿した草花のようなにおいは非常に「朝型」的だ。でも確かに、彼女の作品から感じられる深く内省的な態度は確かに「夜」らしい気もしてくる。

 真夜中とは、「五感が不思議な開かれ方をしていく」「時間の質と密度が昼間と違う」。そう、だから、大切なことはなるべくこの時間にしたいし、その時間を長く過ごしたい、と願うのも無理はないことなのだ。

 そして文章はこう続く。

 もちろん、たまに早起きした朝の清々しさや、「まったく手つかずの午前」をスタートする気持ち良さもまた、格別のものだ。〈中略〉それに比べると、真夜中に集中して行う何かには、非日常的な色合いが強い。
 原稿書きを生業にするようになって、私はますます「一日中真夜中だったらいいのに」と思うことが多くなった。あるとき、何かの拍子に、そうだ、真夜中に特有の、この「覚醒」を、昼間でも自分のものにすればいいのだと開き直った。そんなこと、絶対に無理だと思われたが、これがけっこう可能なのである。五感を、意識して開いておくのである。とりとめもない現実の外界へでなく(そちらへ向かっては、むしろ閉じる)、今、心が向かっている世界へである。でも、そういうことをもっと日常の、具体的な言葉で言えないだろうか。


 この箇処を読んで、私は目から鱗が落ちる思いだった。
 真夜中の「覚醒」を、「昼間でも自分のものに」する。
 それで、私が夜好きでありながら「朝活」に憧れることにも説明がつく。上の引用で梨木さんが述べた「朝」ははあくまで日常と地続きのその日の朝のことだが、いわゆる「朝活」のほうはむしろ、まだ多くの人が睡っている時間帯に非日常の静けさを求めるもの。つまり、朝の時間帯でありながら「真夜中」を指向している、と云えるのではないか。
 つまり私は「「朝型」になりたい」というより、「朝から「真夜中」の感覚を持つこと」に憧れていたのだ。

 とはいえ、実際に一日を「真夜中」的に過ごすには、具体的にどうすればいいか。
 考えた結論としては、「今の私にはとても無理」、だった。

 実は上記の文章を途中までしたためてから数箇月が空いており、私は「真夜中に特有の覚醒を昼間も自分のものにする」を実践しようと愚直にも試みたのだが、無理だった。冬から春にかけてという絶悪のタイミング、ただただ季節の変化に疲弊していたのである。以前の記事「儘ならないもの / 春の訪れ」でも書いたが、この時期、いや四季の移り変わりの各タイミングは本当に無理だ。五感なんて開こうものなら死んでしまう。
 よく読み返せば、梨木さんの文章でも最初は「そんなこと、絶対に無理だと思われたが」とあるし、先生も色々な試行錯誤(それこそ、「魔女修行」のような?)の末に辿り着いた境地であるのに違いなく、私程度の者がそう易々と真似できるはずもないのだ。さらに梨木さんが長年日常的に自然と親しんでおられるのに対し、私は都会の小さな自宅に引きこもっているだけで、五感を開くそもそもの条件が悪い。
 でもせめて、少しでも自分の環境やサイズに合わせて考えることは、できないのだろうか。

 梨木さんの文章ではご自身の話のほかに、美容師さんから聞いたという、実家の改築の際に子ども時代が強烈に蘇った体験を紹介し、「現実の足場が揺らぐ」「五感が不思議な研ぎ澄まされ方をし、現実ではない世界に向けて、日常ではありえない「開かれ方」をしていたのだろう」と説明している。
 以下はその次に紹介されていた、平松洋子さんの「夜中にジャムを煮る」の孫引きである。平松さんは「十年ほど前」に電子レンジと決別したという。

 世界がすっかり闇に包まれて、しんと音を失った夜。さっと洗ってへたをとったいちごをまるごと小鍋に入れ、砂糖といっしょに火にかける。ただそれだけ。すると、夜のしじまのなかに甘美な香りが混じりはじめる。暗闇と静寂のなかでゆっくりとろけてゆく果実をひとり占めにして、胸いっぱい幸福感が満ちる。


 それに続くように、梨木さんの文章も閉じる。

 真夜中の台所でぐつぐつと変化してゆく真っ赤な苺を見つめる。その心もちを、たとえば真昼のスクランブル交差点を渡っているとき、ふと引き寄せて、空を仰ぐ。
 わずかに見える都会の空に浮かぶ雲の種類から、その雲と自分との間の距離を測ってみたりする。刷毛ではいたような巻雲なら、一万メートルほど。そこには西風が吹いている。
 五感を、喧騒に閉じて、世界の風に開く。


 五感を研ぎ澄ますとは、いきなり大自然に向き合ったりせずとも、まずは自分の生活の小さな部分から始めればよいのではないか。思えば、梨木さんがずっとテーマにしておられる「日常を深く生き抜く」ということも、最初はそういったことからスタートしているはずだ。




 私にとって「五感を開く」とは何だろう。まず、いつも暮らしている小さな小さな部屋でできることから考える。
 部屋全体はあまり綺麗ではないから、まず机周りだけでも可愛いもの、綺麗なもので埋める。たまには窓の外を見る。夜は間接照明にして、可愛いLEDランタンとフェアリーライトを灯す。
 ぬいぐるみを愛でる。音楽を聴く。楽器を奏く。アロマストーンに精油を落とす。
 紅茶を淹れる。お菓子を味わう。ほんの少しだけれど料理をする。夜、ココアを作る。
 毎日身に着けるもの、身の周りに置くものはなるべく可愛いものを選ぶ。手帖に書きこむペンの色の組み合わせを考える。スマホで撮った写真を調整し、乗せたい気分にぴったりのフィルターを選ぶ。SNSで見かけた麗わしい美術作品を、改めてきちんと調べる。
 ボディケアはさぼりがちだけど、気がついたとき丁寧にしてみる。軽い運動をするとき、身体に意識を集中する。
 電車に乗ったら車窓の風景を眺める。散歩のとき、近所で植わっている樹々や花、空を見る。小鳥の声を聴く。
 本を読む。こうして言葉を書き散らす。

 そもそも在宅ワークなうえにコロナで外出も減っているけれど、こんな小さな世界でも、こうして書き出してみると私なりに「五感を開く」ためにできることはけっこうある。他愛もないことばかりだけれど、私にとって自分の感覚に素直でいられることのリストであることは確かだ。
 最近、昼のなるべく早い時間に外を散歩して日光を浴びるようになった。春から初夏に近づく今の時期は、ちょうど近所で植わっている花々が咲き初め、闌を迎え、そして強すぎる陽ざしに燥いていき、都会の住宅街でも毎日の自然の変化がこんなにもあるのだと知った。そのとき私は現実に目のまえにある花だけではなく、季節の移ろい、散りゆくものの運命、それでもまた巡ってくる生命といったものに想いを馳せている。
 この昼の散歩のおかげか、最近夜眠くなる時刻が少しずつ早まっている。こうして「朝型」に近づきながら、日々の現実の物事を前に、どこか遠い場処へ感覚を開くことができるようになったら。

 そのとき、私も一日を「真夜中」のように過ごすことができるだろうか。