〈彼女の繭〉

 サナトリウムは海に面していた。僕が訪ねるとき、彼女はたいてい海を見下ろすサンルームの椅子に坐って、小さなスケッチブックになにかを書きつけていた。それは繊細なレースのような文字(達筆ではない)で書かれた無数の詩句であったり、彼女の頭のなかに拡がる風景(暗くも明るくもない)の細密画であったりした。眼前の海を描くことはなかった。
 その日は薄曇りで、潮騒と彼女が鉛筆を動かす音だけが響く空間はいつにも増して静謐だった。素早く細かいストロークの音で、今日は字ではなく絵を描いているのだと判る。肩越しにそっと覗くと、煉瓦塀とその上で眠る猫が完成しつつあった。資料もないのに、愕くほどリアルに細密に。
 「もうずっとここを出られない気がする。」
 彼女は絵に飽きると僕のほうを向いて、弱々しいことばとは裏腹な凛とした睛で凝視みつめてくる。
 「それならそれで、僕はずっとここに通うよ。必ず。」
 「ありがとう。」彼女は透けてしまいそうな白い顔で俯向いて、それからスケッチブックを僕に差し出した。「上げる。使いきったから。」

 彼女は書き尽くしたスケッチブックには執着しない。以前は棄ててしまっていたらしいが、最近は僕が引きとるようになっていた。そうして溜まったものが、僕の室にはいま二十冊ちかくある。
 「きみに逢えないときは、貰ったスケッチブックを眺めてきみのことを思い出してる。」
 彼女は肩を竦めた。「そんな大層なものじゃないよ。それに、そこに書かれているのは私じゃない。」
 ぼくは代わりに新しく買ってきたスケッチブック(彼女が絶対にこれしか使わないという指定のもの)を渡した。彼女は微かに満足げな笑みを浮かべ、大切そうに膝の上に置いた。
 「これは、私の業なの。ずっと何かを書かずにはいられない。でも書いたものは何でもないから何者にもなれない。」
 ――有名な作家の父と画家の母を持つ彼女の苦しみは僕には解らない。だが彼女が糸を吐かずにはいられない蚕のように編み上げた、繭のような詩句や絵を、僕は美しく価値あるものと思っていた。同時に、これを(少なくとも今は)世に出したくはないとも。
 独占欲と云われたら否定はしない。だがそれ以上に、彼女自身が持っている美学や矜持に共鳴してのつもりだった。なぜなら、彼女の作品は繭のようなものだから。それは彼女のこころを守るために創られたもので、他者に見せびらかし消費され批評されるためのものではないから。
 そしてもし仮に彼女の作品を世に出せば、彼女が望まないかたちで注目される惧れがあった(僕の贔屓目かもしれないが)。生と死の境を彷徨う女性が紡ぐ危ういことばの蠱惑。非実在のものを恐ろしいほどリアルな絵として描き出す力。前者はただの同情家やおぞましい感傷屋たちを、後者は「リアル」なだけで飛びつく稚拙な美術観の持ち主を、蠅のように群がらせることが容易に想像された。そんなことを、彼女は決して望んでいない。
 不意に雲間から陽がさして、彼女の長い髪をきらめかせた。その睛は海の彼方を向いている。
 「……違う。私は本当は、ここから出たくないのかもしれない。自分の意志で――」
 彼女は僕の手をとると、頬に押し当てて瞳を閉じた。
 こんなにも近くにいるのに、僕のこころは彼女には届かない。だから僕は彼女を助けることも本当の意味で寄り添うこともできず、ただ曖昧なことばをあげるしかない。
 だから、せめて。僕は彼女が創る繭たちを、大切に保管するのだ。いつか彼女がサナトリウムを出て、それらが簡単に棄てていいものではなく紛れもない「作品」であると気づくまで。彼女自身がその価値を見出すまで。
 僕は彼女の肩を抱き、ともに潮の音に耳を澄ませた。彼女が鉛筆一本で紡ぎだすことばやイメージのように、細かく複雑でありながら果てしない広がりを持つ、こよなく美しいその音に。