儘ならないもの / 春の訪れ



 写真は少し前に近所で撮影した梅である(現在はもうおおかた散っている)。
 最近は、桜よりも梅が好きかもしれない。目立ちたがり屋の桜よりもいち早く、厳冬のさなかに雪のような可憐な花を咲かせ、「もうじき春になるよ、つらい時季は終わるよ、」と寄り添ってくれるようで。

 年末にていねいな気持ちでブログを始め、前回の記事を書いてから早くも2箇月以上。この間、大寒波やら巨大低気圧やら生理周期やらで奈落の底にダイブしたようになり、書くことにさっそく挫折していた。実を云えば敬愛する作家さんの文章からヒントを得て「五感を開く」というようなことで記事を書きかけていたのだが、そんな状況で五感など開こうものなら死んでしまう。ていねいどころではない。

 こうした自然現象、とくに低気圧のような巨大な力を受けると、自我がばらばらになる心地がする。意志は骨抜きになり、そうして自分のいちばん幼くて惨めな部分だけが残る。
 仕事からは色彩が失せ、手を動かせなくなる。人間関係の瑣細なことで傷つき、苛だち、孤独を感じる。自己嫌悪も増幅していく。身も心も冷え、まともに頭が回らず、文章を綴ろうとしても陰鬱なことばしか出てこない。

 現在、啓蟄も過ぎ、東京の気温はかなり暖かくなっているが、これも「三寒四温」という趣のある(?)名だが実態は我々の自律神経を拷問するあの厄災のプロローグにすぎない。今年はそのうえこの花粉で、軽微な花粉症の私も久びさに抗ヒスタミン薬に手を出した。

 気圧。気温変化。生理。花粉。他者。自分。儘ならないもの。





 とはいえ、蹌踉めきながらも最悪の時期はなんとかやり過ごした。この間にも少しは読書を続けたり、仕事としている絵のことで新しい工夫を考えたり、楽器を奏いたり、体調がいいときは筋トレをしたり、確定申告を終えたり。呆気なく途切れそうになる日々の営みを、細々と繋いできた。
 だが、これから桜が咲こうがアパレル業界が企むスプリングカラーが巷にあふれようが、心身はもうしばらく揺らぎ続ける(花粉もあるし)。

 春というこの時季で唯一好きと云えるのは、その揺らぎゆえの、どこか懐かしく仄暗く妙に切ないあの感覚だろうか。
 私の場合、それは風とその音によって齎される。
 微風というには強く樹々の葉をざわめかせるが、私たちを慈しむようにやわらかい、冷たいようで温い風。
 あの風を受けると私は10代のころのように感受性を剥き出しにされ、そのままどこか遠くへ、遙かな過去へ誘なわれる心地がする。そして目に映るものはすべて幻のような燦きを帯びる。数秒後には現実に戻るが、その刹那の感覚が泣きたくなるほど愛おしい。その風は夏や冬には決して訪れない(秋には少し、同様のものがある)。

 この感傷はきっと、幼い多感な時期の幾多の春に刷り込まれた別離や旅立ちの記憶のせいだとは解っている――今はもう、別れるほどの人付き合いもなく、どこへ旅立つこともない人生なのに。
 その一瞬の日常のゆらぎは生活や仕事に直接影響を与えはしない。ただ、冬の寒さで凝り固められた焦燥感や自己嫌悪、その裏返しであるエゴイズムが、ほんの僅か解きほぐされる。そうしてその一部が、清らかな寂寥とノスタルジアに変容する。

 日がいっそう長くなり、陽ざしが明るみ、桜が咲いたり巷にスプリングカラーがあふれても、気分は簡単に前向きにはならないだろう(一時的な躁状態になることはあるかもしれないが)。たくさんの儘ならないことを堪え忍ぶ日々は、初夏の慌しさに呑まれるまで続くだろう。
 そのなかで、「ここではない、どこか」「今ではない、いつか」を想わせてくれるあの風を受けることがあったなら。
 実際の風でなくともかまわない。室内であっても、春にだけ訪れるその風を遠く感じることがあったなら、その儚い瞬間に腕を伸ばして抱きとめたい。私の魂の鬱屈としたエゴイズムが慰められ、少しは清められるように。

 春は追憶の季節だ。