聖夜のしあわせ / 失なわれたものはかわいい / etc.
今年のクリスマスは妙にしあわせだった。
いつもと同じ、両親と3人で作るささやかなクリスマス会。長年ずっとそうしてきたように、クリスマスキャロルのCDを流し、他愛ない話をしながらごちそうやケーキを食べるだけ。
ずっとこうしていられたらいいのに、と思った。
幼いころからこうして重ねてきたクリスマスも、ある数年間、我が家が危機的な状況にあったときのことはあまり憶えていない。「あのころはクリスマスどころじゃなかったよね。」と、両親と一緒に当時を振り返った。
だから両親がこんなに平和そうで、私も両親に対してわだかまりを持たずにささやかなクリスマスを愉しめることは、当たり前ではない。
私は長年、両親を含め、色んな人を恨んでいた。
人を恨むのは疲れた。
今はもう、誰かを恨む必要はない。恨もうと思えば恨める。でも、差し当たって私たち家族は平穏な生活を手に入れた。だからこちらのほうに目を向ける。
明けない夜はないし、出口のないトンネルもないのです。やったー。だからこうして、いまもずっとパパとママに愛されている。場処は遠いけれど恋人だっている。しあわせだ。
ただのんびりと愛されている、こんなしあわせなクリスマスをあと何度過ごせるんだろう。
存外、もう10回も20回もこうして過ごすのかもしれない。
これが最後かもしれない。
もうパパもママも若くないから、そこまでの年寄りじゃないけどある日突然死んでしまうかもしれない。いつ病気や、要介護になるかもしれない。
またなにか別の不幸が起こるかもしれない。
暮れない日はないし、またトンネルに入ってトンネルごと道が崩壊することだってあるからね。
――そうして潰えてしまったら、私たち小さな家族の歴史はもうどこにも残らない。
そんなふうに考えると切なくなって、切なくなりたくないからその気持ちはお酒とごちそうとケーキでお腹のなかへ流しこんだ。
いまは、ここで、パパもママもにこにこしていて、私は小さな女の子のように大事にされている。
この齢でこんなに子離れも親離れもできていない親子って「世間」から見たらけっこうやばいんだろうけど、いつも私の脳裡でサブリミナル的に鳴り響く、そんな仮想の「世間」の声がいつの間にか消音されていたのはきっと、クリスマスの魔法だったのだろう。
当然のようにふんわりと訪れたしあわせは、当然ではないから、ずっと浸っていたいと願ったのだ。この夜だけは。
*
失なわれたものはかわいいと思う。
失なわれた時点で、それはもう私を裏切らないから。
最期に私に見せた姿を永遠に残して、変わってしまうことがないから。
そうしてずっと、私の傍にいてくれる。
だから、幼いころに手放した玩具、閉業したカフェや書店、消えてしまったウェブサイト、もう一度行くかわからない地域、大好きだったのに潰れた洋服のブランド、卒業以来会っていない同級生は、みな愛おしい。
不在としてずっと私のなかに存在するものたち。
愛用しすぎた品、足繁く通いすぎた場処、仲よくしたくて近づきすぎた人など、執着したものほどいつしか色褪せ、醜く姿を変え、私を拒絶するのはなぜなのだろう。
失なわれたものの記憶は月日が経つごとに純化され、夾雑物が削ぎ落とされ、私が愛した最も美しい性質だけを顕わしていく。
もうなにも、変わらないで。私を失望させたり、悲しませたりしないで。そのままでいて。永遠に。
――色んなものが失なわれたり、変わってしまうことがあるたびに、そんな傲慢な思いが脳裡を過ぎるのです。
*
昨年の今ごろブログを設置して、そのうちエッセイよりも小説を書くようになってこちらはしばらく放置していたけれど(小説はその後カクヨムやステキブンゲイに掲載しています)、久びさにエッセイを書けそうな気分になったので書いてみました。
この1年で、以前とは比べものにならない量の文章を書き、50冊以上の本を読みました。文章はまだまだ拙いし、読書数も多いとは云えないけれど、リハビリ1年めとしてはこんなものかと思っています。
こんなふうに読んだり、書いたりすることを続けていれば、またなにか変わるでしょうか。なにか希望が見えるでしょうか。叶うならばもっともっと読みたいし、書きたい。
色んなことのあった1年でした。
個人的なことでいえば、上記のように読み書きの習慣を復活させたこと。体力づくりのためにバレエを始めたこと。自分の心を守るために少し淋しい決断をしたこと。
遠いことをいえば、ガザのこと、など。
昨年のブログに書いたとおり、手書きの簡易な日記の習慣もそのまま続いているので、これからぱらぱらと捲って振り返りたいと思う。
世間はわりと暗いから、必ずしも前向きにはなれない。
それでもなるべく、自分の周囲の小さなしあわせを拾い集めて。心を平穏にして、自分の内面に向き合って。
私はあまりにも脆弱で、まだまだ誰の役に立つこともできないけれど、ほんの少しでも成長できる来年になったらな、と願うのです。