〈みずうみ〉

 広葉樹の森の奥深くの湖に、わたしが殺した少女が眠っている。
 ――いや、眠っているはずだ。
 わたしは誰にも知られることなく彼女を殺して、やがて大人になって、運転免許をとって自分の車を持つようになってから、毎年必ずその湖を車で訪れる。
 あの秋、わたしたちは二人で徒歩で湖を訪れて、彼女だけが姿を消したことになっている。湖も当然捜索されたはずだが、なぜ遺体が見つからないのかは解らない。そのおかげでわたしはなにも疑われることはなく、罪を償う機会も逸してしまった。
 わたしたち二人は仲がよく(とわたしは信じていた)、いつも双子のようにお揃いの服を着ていた。わざわざ示し合わせるようになる以前から、服飾品や文房具、読む本まで偶然に同じものを買ってしまうことが多かった。だからいっそお揃いのものを買おうか、ということになり、放課後はしょっちゅう彼女と街で買い物をしていた。
 楽しかった。お揃いの赤いワンピース。お揃いの綺麗なリボン。お揃いの白いスニーカー。お揃いの花の形のイヤリング。そして、ペアリング。
 さすがにやりすぎだろうか、と冷静さがよぎったのはそのペアリング(瞭らかに恋人向けに売られていた)を買ったときで、その場ではいつもどおり笑い合いながらお互いに指に嵌めてみたものの(ふざけて結婚式の指輪交換の真似ごとをした)、そのときからわたしたちには少しずつぎこちなさが生じていったように思う。いつまでもこんなことをしていられるわけがない。期間限定の前提があるからこんな過剰な遊びができる。でも、この無邪気な遊びを終わりにするとしたらいつ、どうやって。
 わたしたちはそれを綺麗に終わらせることができなかった。

 森に行ったのは秋の半ばで、提案したのは彼女だった。わたしたちは久しぶりに、お揃いではない服装で出かけた。ちょっとした山歩きのようなものだから、そんなときの服装まで同じものは買い揃えていなかったのだ。
 それでもそのときわたしは右手の薬指にペアリングを嵌めていて、待ち合わせ場処についたとき、彼女はそれをしていなかった。
 黄や赤の葉に覆われた湖の畔にシートを敷いて休憩していたとき、彼女は唐突に切り出した。恋人ができたのだと。
 だから、お揃いはもうやめようと。
 全身の血流がざわめくのが聴こえた。手の指尖が冷え、顫えている。呼吸ができなくなる。
 彼女に恋人ができたことなどどうでもよかった。お揃いをやめることだって。でも彼女がその二つを無理やり結びつけたこと、この遊戯の終わりはわたしたち二人の問題なのに、無関係の第三者を持ち出したことがとても浅ましく思えた。しかも彼女は、それを宣告するためにわざわざこんな回りくどいことをして、逃げ場のないこんな淋しい森を舞台に選んだ。――それが赦せなかった。
 憎しみが黒い血のように迸った。
 わたしは彼女を湖に突き飛ばした。
 ――思い返せば不思議なことだが――彼女はなんの抵抗もせず、水面に浮こうと足掻きもせず、湖の底に吸い込まれるように静かに沈んでいった。
 彼女が沈むのを見届けながら茫然と、この湖はこんなにも深いのかと、わたしはようやく気がついた。
 静まり返ったその空間に三十分ほどは立ち尽くしていただろうか。湖はもはや漣ひとつたてていなかった。わたしはその場を離れ、日が傾いてしだいに暗くなる道を長い時間歩いた。やがて森の外の最寄りの交番に辿り着くと、友人とはぐれてしまったんです、と云った。
 その後、わたしは彼女と湖の畔で休憩していたことまで正直に警察に話した。それなのに彼女は湖からは見つからず、警察はむしろ無関係の場処を重点的に捜索するよう方針を変えた。わたしは途方に暮れた。
 失踪から年月が経ち、彼女はついに法的にも死んだ。
 わたしは湖の畔に坐って考える。彼女はわたしが見守るまえで確かにここへ沈んだ。意外に深いが小さな湖だ。湖の捜索というものがどのように行なわれるのかは知らないが、彼女が見つからないなんて奇怪しいと思う。
 ならば彼女は、どこへ消えてしまったのか。
 わたしはペアリングの片割れを外して光に翳した。彼女とお揃いのもので、唯一今も持っている品。
 それから立ち上がり、水際みぎわまで歩み寄る。
 「……ねえ。」そっと彼女を呼んだ。「ここにいるんでしょう。」
 微風と葉擦れの音のなかに耳を澄ませたが、応えはない。
 「ごめんなさい。わたしも本当は、あんな遊びはいつか終わらせなきゃって思ってた。ちゃんと綺麗に終わらせていたら、わたしたちは今も友だちでいられたのかな。」
 そのとき、仄暗い水面に映るわたしの像が揺れ、妙に白くはっきりと輪郭を描いた。
 違う。それは彼女だった。変わらぬ少女の姿のまま。しかしその服装は死んだときのものではなく、わたしたちがいちばん気に入っていたあのお揃いの赤いワンピースだった。水中に髪を靡かせながら彼女はほほむ。――瞭らかに生者ではないと判る、蒼白く浄められた死者の咲み。その咲みを見てようやくわたしは、彼女は本当に死んだのだ、と理解した。
 彼女は水面に腕を差し伸べる。右手の指にペアリングをしている。わたしがその手を取ろうと腕を伸ばしたとき、自分のリングを落としてしまった。
 彼女はそれを両手で大切そうに受けとり、胸許に引き寄せた。それから最後にもう一度やわらかくほほ咲んで、静かに水底の世界へ消えた。
 「ごめんなさい。」
 わたしは泣いた。その場に坐りこんで、陽が沈み、残照が失せるまで。
 夜になり、湖面が星々をいっぱいに映すまで。