紅茶のこと



 紅茶を自分で淹れるようになったのは大学生のころ。とある、絵本のようなパッケージが愛らしい紅茶専門店にふらりと立ち寄ったのがきっかけだったと思う。

 当時は週末に小さなポットか、大きなマグカップ1杯ぶん淹れる程度。色いろな紅茶ブランドを試してはまず個性豊かなフレーバーティーを楽しみ、それから様ざまな地域の茶葉の特徴を覚えていった。お小遣いで可能な範囲で愛らしいカップを買い足し、ポットコゼーやキャディースプーンも揃えた。
 完全なるロイヤルミルクティー党で、湯とミルクの量は1:1、茶葉はストレートの場合の約2倍を使うといった方程式に辿り着いた。(すべてミルクで煮込んで作るコンチネンタルミルクティーは、手間がかかる上に牛乳くさくなるリスクが高いので好まない。)甘味は白砂糖ではなく三温糖を、甘すぎない程度に入れる。

 学生のころそうして特別な茶葉を淹れて飲みながら、本を読んだり書きものをするのは特別なひとときだった。今は、当時よりも常飲するためコスパ重視になったのと、仕事中に飲むようになったり単に慣れたせいもあり、あの特別感はけっこう失せてしまった。ちょっと悲しい。

 先月のクリスマス前にアドベントティーを買いそびれ、特別感を求めて思い出したのがかつてのお気に入りの一つ、TE HANDEL というスウェーデン風の紅茶店。なぜ何年も頭から抜け落ちていたのかと思うくらい、オンラインショップでフレーバーティーのリストを見ると、香りと味の記憶が何種類もよみがえる。たぶんミルクに合いそうなものはコンプリートしていたと思う。


 久々に購入したのは、初めに載せた写真の「VinterSaga 冬物語」(※撮るまえに開封してしまっていた)と「min ängel 私の天使」。こうしたネーミングセンスも素敵だし、以前から一貫しているミニマルなパッケージもいい。
 「VinterSaga」は林檎やスパイス、アーモンドの自然な香りがなんともクリスマス以降の北欧の冬っぽい(※個人のイメージです)。「min ängel」は洋梨グアバ、いちごの葉、バラといったいかにもフルーティーかつフラワリーなフレーバーで、春先までに飲むのにぴったり(だったはず)。
 「あのころの味」を久々に味わうというのもエモーショナルな体験だけど、現役のブランドを勝手に過去の宝物にしてないでちゃんと買い支えようぜ、と反省したりしました。いや、ほんとになんで忘れてたんでしょうねえ……。

 こういった個性的なフレーバーが売りのお店(ベースの茶葉が良質であることが大前提)のほか、ブラックティーはインドやスリランカから直接仕入れている専門店で買うことがほとんどだ。値上げの波のなかでお財布と相談しながら、手を出せる茶葉は限られるけれど、こういったものも大手ではなく、なるべく小さくていねいなお店で買いたい、という気持ちがある。



 (最近よく使っている Afternoon Tea のマグカップ。少女趣味な苺柄がかわいい。気どったティーカップは容量も少なく使いにくいのと、我が家の食器棚環境が恵まれていないため、割れてもあまり惜しくない価格のものを買う。それでもなるべく愛らしいカップ、綺麗なカップを選ぶ。)


 ところで、自分で紅茶を淹れる習慣があると、飲食店でいただく紅茶が非常に割高に感じられたり、とくに自分で淹れるより拙い場合の不満が大きい。つまり他人に淹れてもらうありがたみが少ないというデメリットがある。
 そんなわけで自分で淹れるのは紅茶に限り、珈琲には手を出していない。家で飲むのはそんなに不味くないという程度のインスタントばかりである。だから専門店でいただく良質な珈琲のありがたさといったらない。
 しかし最近、知人がマグカップ1杯ぶんの豆を挽いてさっとドリップするのを見て、珈琲も家でそんなふうに淹れられたらなあ、と欲が出そうになっている。曰くコスパもけっこういいらしい。しかしいちいち豆を挽くのも面倒くさいのでは、という気もして悩ましい。

 紅茶の話に戻る。ここまでいかにも紅茶好きのように書いてきたが、この2、3年はなかなか毎日は淹れられていない。1週間飲みそびれることもある。私は「温めたマグカップに「お茶パック」として売られている小さな不織布の袋を広げ、そこに茶葉を入れ湯を注ぐ」という簡略化した方法で淹れているが、それでも全工程で15分ちかくかかるし、習慣が途切れていると面倒になってしまう。

 茶を淹れるという営み。それはアジア各国で「茶道」というものにまで昇華され、西洋でも種々のセレモニーがあるように、そもそも高度な精神的集中を要する行為なのだ。
 私などは未熟な人間だから、自宅で紅茶を淹れるとき台所に家族がやってくるだけでも集中が乱れ、手を滑らせたり手順を間違えたりしてしまう。だから、気分が乗らなかったり集中力が切れているのを理由にインスタント珈琲に逃げる(?)ことが増えていた。だが最近は、集中できないから茶を淹れられないのではなく、茶を淹れることで精神を整えるべきなのでは?(!)という気もしてきた。

 茶道具を揃え、湯を沸かし、茶葉を量り、時間どおりに蒸らす。それからたっぷりのミルクと砂糖で味を調え、カップを自室に運んだあと、残った道具を片づける。
 忙しい合間に無理にでもそうした一連の手順を重ねていると、いつしか心も次の時間のために切り替わる。ていねいに無心に集中したときほどその効果は高くなる。
 折々の香りを記憶に刻み、「今、ここ」に意識を戻す有効な儀式。マインドフルネスじゃないけれど、そう考えるとやはり、ちゃんとやったほうがいいなあ、という気がしてくる。

 なんだかまたくだくだしく書いてしまったけれど、つまりはこれも「ちゃんと紅茶を淹れて精神統一するぞ!」という、本年の決意表明なのでした。