紙の本を、書店で買う、ということ




 私の最近の読書の半分ちかくは電子書籍だ。
 元は強硬なまでに「紙派」だったが、途絶えていた読書習慣を復活させるのに圧倒的に役立ったのは電子である。紙の印刷物より遙かに手軽で、「スマホいじり」の要領はそのまま、SNSに入り浸る代わりにわずかな操作で読書にスライドできる。
 また、電子書籍のほうが要点を捉えての飛ばし読みも(なぜか)しやすく、継続的に読書していたころの「一字一句きちんと読まねばならない」という強迫観念や脳内で音読してしまう癖から(そう読むべき文章は別だが)解放され、WEB記事や Twitter を眺める感覚で効率的に読むことも可能となった。
 何より本棚がいっぱいだから、物理的空間をとらないのが最高である。電子書籍ばんざい。

 それでもやはり、紙で読みたい本というものがある。

 紙の本を、書店で買うこと。まだ電子書籍が普及していなかったころ10代だった私にとって、それが書物を自分で選び自分のお金で手に入れるということの原体験だ。
 放課後まだ家に帰りたくないとき、まだ塾に行きたくないとき、憧れや不安や切なさやそのほか行き場のない感情や思考を持て余しているとき、書店に立ち寄っては彷徨った。
 文学書。芸術書。哲学書科学書。世界にはたくさんの宝石のような書物があって、私はこれからの長い人生でいくらでもそれらを読み、吸収していけるのだと思っていた。そうして私はいつか聡明に博識になり、今の行き場のない感情も思考も処理できるようになる。書物を通して私は広大な世界を旅していける。まばゆいばかりの書架を前に、私は未来の自分にすべてを丸投げしてそう信じていた。

 お城のように広大で、いつも美しく切ないBGMが流れていた大型書店。塾帰りにアンニュイな気分で彷徨った、深夜まで営業する都会的な書店。ファッションビルの一劃で場違いなほどの蔵書を誇り、文化的な匂いを放っていた中型書店。地下空間に拡がる秘密基地のような書店。大切に選び抜かれた本だけが置かれた、スタイリッシュでありながらぬくもりのある個人書店。
 そうした思い出深い書店のいくつかは、今はもう存在しない。

 成人してずいぶん経って、わずかに閉店の憂き目を免れた好きな書店を訪れても、もう思春期のようにまばゆく見えはしない。本が売れない時代と云われている。書籍は玉石混淆で、ヘイト本のような醜悪なものも目につく。一生の心の支えとなるような本など世界中にほんのひと握りしかないのだともう知っている。
 それでも興味深い本は星の数ほどあるが、私のような遅読では書架数個ぶんも残りの人生で読みきれない。1冊1冊の本だって充分に理解できているとは云えないのに。本は読めば読むほど聡明に博識になるどころか、自分の無知さ愚かさを深掘りさせられるだけだ。行き場のない感情や思考は膨張し分岐し複雑に絡みあい、澱のように溜まっていく。良質な書物を読んでも私自身はもうどこへも行けない、ただ他人の旅行を眺めている傍観者だ。背表紙の整然とした並びは、私にはもう手の届かない分厚い高い壁だった。

 やがて私のなかで鈍重に溜まっていたそれは破裂し、私は空っぽになった。
 そうして本を読まなくなった。

 ……深刻に考えすぎず。理解できなくてもいい。無知で愚かなのは当たりまえ。自分だけの狭い世界にいたってかまわない。心の余裕ができるまでは、ただ綺麗なもの、好きなものを好きなだけ手にとればいい。そんな単純な境地に至るまで、何年かの空白が必要だった。

 気負わずに再び書店に足を運ぶと、そこにはただ本が並んでいる。当たり前である。べつに、私が読まねばならないわけではない。かといって、本は壁を築くようにわざわざ私を疎外しているのでもない。本はただそこに存在していて、理解できるものはできるし、できないものはできない。
 そのなかに、手を伸ばして頁をめくると、ああこれは好きな本だ……と思えるものがある。そういう出逢いかたは、書店でしかできない。

 ――そんなふうに、最近オンラインではない書店で購入したのが冒頭の写真の4冊。以下紹介がわりの出版元リンク。(ちなみにアフィリエイトとかではないです。)短歌集1冊と随筆/エッセイ3冊。レビューしたいわけではないので中身にはふれません。

 川野芽生「Lilith」(そもそも紙でしか存在しない。一首一首をじっくり堪能できる麗しいハードカバー。)

 夏目漱石 「硝子戸の中」(古い作家は紙でないと生理的に読みづらい。とくに漱石は古風な装丁、古風な書体に限る。)

 梨木香歩「不思議な羅針盤」(これは電子でもよかったけれど、そこに在庫があり、出逢えたので。)

 森茉莉「幸福はただ私の部屋の中だけに」(微妙な古さの作家なので電子でもよかったが、やはり紙がしっくりくる。)


 「Lilith」は足を運べば必ずお金を落とすと決めている某ジュンク堂店舗で。文庫3冊は近所の中型書店で購入した。好きな書店、身近な書店の売上に微力でも貢献したくて、機会があればなるべくそうした実店舗で買うようにしている。(ちなみに、オンラインでも基本的に某世界的大手は避け、honto やお気に入りの個人店を利用している。)
 4冊とも最初に情報を得たのはオンラインで、純粋に実店舗で「出逢った」わけではないのだが、他人のレビューだけでは決めかねるとき、やはり実物を手にとって「これだ」と確信する感触には得がたいものがある。
 文庫のほうの一部はカバーに若干のスレがあった。見知らぬ人々が手にとっては書架に戻した痕跡。実を云えば私は少し潔癖症なのだが、そんな痕もある程度までは目をつぶる。多少スレがあるくらいが、自分で取り扱うにも神経質になりすぎなくていい。この本にはこのあたりで私が出逢うべくして出逢い、引きとるべくして引きとったのだ。

 この4冊を、いま並行して少しずつ読んでいる。「本はすべて1冊ずつきちんと通読する」という固定観念に捉われ、併読するとしてもせいぜい2冊が限度であった、かつての私には思いつきもしなかった読みかただ。長編小説などはある程度続けて一息に読む必要があるが、詩歌や随筆(エッセイ)、短篇小説などであれば好きなところで区切りながら好きなだけ読めばいい。やってみると、贅沢なビュッフェのよう。早くやっていればよかったなあ。こんなことにも気づかないのは私くらいで、読書家の多くはきっと当たりまえにやってるんだろう。

 精神的なトラブルや疲労のせいで強迫的になり、それで本が読めなくなっている人、それでも読むことをとり戻したい人には、おすすめできる読書法かもしれない。




 こちらの写真は私の本棚の、ミヒャエル・エンデ中心のお気に入りの一劃。最近は100円ショップにこのような本棚収納グッズが揃っているから、スペース不足を大いに解決できる。ダイソーで買ったこの文庫用ブックスタンドはすっかりお気に入りで、もう8個ほど設置した。それと並行して、不要となった本の処分も進めていく。(断捨離だとかこん○りさんほど思いきったことはできないが。)

 恥ずかしい話だが、本を読まなかったあいだに本棚の埃はとんでもないことになっていた。今は1段ずつ本を引っ張り出して埃をミニ掃除機で吸い、丁寧に拭きあげ、並びを改善していく作業中。
 そうして蔵書の一つひとつと向き合っていると、失われていた輝きがよみがえるような気がする。あのころ憧れをこめて見つめていた書店の立派な書架に負けないくらい、まばゆい私の蔵書たち。

 スペースを多少増やしても、懐事情もあって買ってばかりもいられない。
 次は、ずっと有効期限を切らしていた図書館カードを更新に行こう。